社長紹介 〜アイティメディア社長を徹底取材〜

大槻利樹の過去と未来――メディアへの熱い想いと若手時代の葛藤に迫ります。

大槻利樹 (おおつき としき)
1984年、ソフトバンク創立4年目に新卒で入社。ソフトウェアの流通部門を経て、孫正義社長の秘書を務める。その後、ヤフーやサイバーコミュニケーションズ(CCI)などの立ち上げに尽力。1999年、ソフトバンク・ジーディーネット株式会社(現アイティメディア株式会社)を設立。


タクシーの中でひとり男泣き?

ミレニアムイヤーが明けた2001年。
ITの目覚ましい進歩の中、設立したばかりの当社は赤字ながらも順調に事業を拡大していた。この時期、大槻にとって忘れがたい大事件が起きる。

「忘れもしない2001年の暮れ」、大槻は人知れずほおを濡らした。

引き金になったのはYahoo! BBの不具合だ。2001年9月、親会社であるソフトバンクは社運を賭けて新規事業のYahoo! BBのサービスを開始した。ところが接続トラブルが相次ぎ、ユーザーからの苦情の嵐が吹き荒れる。この事実に基づいて、アイティメディア(当時の社名はソフトバンク・ジーディーネット株式会社)では「Yahoo! BBはどうなってるんだ?」という主旨の記事を掲載した。事実を伝えるのはメディアとして当然の行為。特段問題はないはずだった。しかし、記事の内容がソフトバンクの孫正義社長の耳に入ると事態は一変、大槻は地獄を味わうことになる。

「経営会議に呼ばれて行ったら……すごいんだよ。大勢で俺をまるで被告人扱い。その場にいた全員が、『グループが総力を挙げて頑張っているのにジーディーネットは裏切るのか!』っていう白い目で俺を見てね。孫さんが静かに言うんですよ。『大槻、俺がこれだけ命を賭けて取り組んでいる事業を邪魔するのか?』って。もう平謝りに謝った」

「ソフトバンクに新卒入社して以来、最もつらい瞬間」だった。そして、つるし上げに遭った帰りのタクシーで、大槻は泣いた。「そのつもりは毛頭ないのに、お世話になっている孫さんの“邪魔をする”ことになったのがつらくてね……」

メディアとして当たり前の行為が予期せぬ事態を招いた。当の記事は結局どうなったのだろう?

実は「最後まで1文字も変えさせなかった」。親会社だろうがグループ会社だろうが厳しく書いていい。大槻はそう考えている。「ただし、ITやマーケットに対する愛情だけは忘れないでほしい」。社内の人間にはそう伝えたという。愛のない記事は読めば分かるからだ。

「いつも売り上げ売り上げ、と厳しいことを言ってはいても、俺はこのメディアが好きだし誇りを持ってるんでね」

「俺、何やっているんだろう?」若き営業マン、雪の中で悩む

たとえ断罪されても筋を通す、そんな企業トップにも新人時代がある。ここからは若手時代の大槻を紹介する。

大槻は飲んで盛り上がるのが好きだ。「若いころは出入り禁止になった店も結構ある」らしい。ただ、どんなに飲んでも始業時間には出社し、平然と仕事机に向かう──それがビジネスパーソンの意地だという。つい最近も、社内の若手と朝7時まで飲んだ2時間半後にはデスクの前にいた。「さすがに疲れたけどね」と、苦笑する大槻。豪放磊落(らいらく)な一面を持つ一方で、新人時代はそれなりに悩んだというのだが……。

1990年発行の社内報。若き日の大槻がいる。

時代は四半世紀さかのぼる。

バブル経済が始まる前の1984年、大槻はソフトバンクに新卒入社した。大学の同期が名だたる企業に進む中、設立からわずか3年のベンチャー企業を選択する。「最初は友人と同じように大企業を受けていたんだけど、途中からなんかつまらなくなっちゃったんだよ。出来上がった組織で働くのもなんだかなぁって」

もともと最先端のものが好きで、学生時代には当時まだ世に出たばかりのPCを大枚はたいて購入した。プリンタや記憶装置等を一式そろえると自動車と同じくらいの価格になったという。そして、これからはコンピュータの時代が来ると確信した。そんな大槻の思いを鼓舞するかのように、時代は孫正義社長を若き天才経営者として注目し始めていた。大槻に進路選択の迷いはなかった。

入社から1年半の間、言われるがままにビジネスソフトのパッケージ営業をして回る。しかし時代を先取りしすぎたのか、売れ行きはさっぱり。当時PCはまだ玩具扱いでゲーム用のソフトが主流だった。そんな矢先、札幌営業所に異動となった。「上の人も、『まだ若いから、経験を積ませるために一度雪の中に放り込もう』という意図だったんだろうね」

札幌に赴任してからも営業に回る日々だった。そんなある日のこと。いつものように営業先を回っていた。雪でずぶ濡れになりながら、重いビジネスバッグを抱えて歩いていたとき、「あれ? 最先端を行く会社に入社したはずなのに、俺、こんな雪の中ずぶ濡れになって、何やってるんだろう?」──そんな感覚に襲われ、会社を辞めたくなったという。思い描いていたイメージと懸け離れた惨めな自分からの逃避願望が膨らんだ。「給料2倍出すから来ない?」。タイミングのいい、複数のメーカーからの勧誘も願望に拍車を掛ける。だが、なんとか踏みとどまった。ある出来事があったからだ。

大槻は回想する。

「あのとき、孫さんが札幌まで来てくれたんだよ、私服でふらっと。それで、ビルの地下にある菊(キク)っていうそば屋に連れて行かれて、天ぷらそばをおごってもらってね」。このとき2人は初めて膝を交え、親しく言葉を交わしたという。「孫さんは温かい人でね。温かくて本当に表裏がない。それで『この人と一緒に仕事したい!』って思ったんだよね」。だが、こと「ビジネス面ではあまりに厳しかった」。今もそれは変わらないという。そんな孫さんに「20年間だまされ続けた」と口にする大槻の声はしかし、明るい。

白銀の町では2年半辛酸をなめた。逃げ出したかったのはこの時期だけだ。「若気の至りかな?」と笑う。

帰京後、「やりがいがあった」2年間の商品マーケティング部を経て、孫社長の秘書を5年半務めることになる。歴代の最長記録であるという。秘書1日目、孫社長は「大槻、これからは(自分に対して)Yesを70%、Noを30%にしてくれ」と頼んできたという。90%もYesがあったら嘘くさい。かといって否定が多いと人間関係がギクシャクする。“70%のYesと30%のNo”はそんなことから導き出した数字なのしれない。

A4サイズの大学ノートが2週間で埋まるほどハードだった秘書時代、経営者としての真髄を「語り尽くせないほど多く」学んだ。大槻はその後、出版事業部での広告局長を経て1997年にアイティメディアの前身であるジーディーネットを事業化、さらに1999年に独立させる。


年季の入った秘書時代の仕事用ノート、
100冊ほどあるそうだ。

英語や図もちらほら

自動車の隣同士で「今メール送ったぞ」「はい、分かりました」──テクノロジーへの新鮮な驚き

秘書時代は次々に新しいITが生まれ、業界全体が成長し始めていたころだ。今では当たり前となった「IT」は、「ハイテク」と呼んでいたようだ。
当時大槻が驚いたことは──

携帯電話通信

「1989年か1990年あたりかな? 携帯電話を持ち始めたのは。当時、自動車で孫さんの隣に座っていると、孫さんから『今メール送ったぞ』ってメールが届くわけ。
それで『はい、分かりました』『あ、着きました』ってメールしてね。静かな車内に着信音が響いて……なんか変だろ? それくらい、通信できるのがうれしかったんだよ」

FAX

「当時価格が30万もしたんだよ。とても個人では手が出せないでしょ? そしたら孫さんが『大槻、自宅にFAXを買ってやる』って言うわけ。『俺のために? なんていい会社なんだ』って感激して深夜帰宅したら、床までFAX用紙が垂れてて、『これ、やっといて』って孫さんからFAX来てたんだよね(笑)」

ワープロの文字変換

「ジャストシステムの『一太郎』には驚いたね。だって、それまで漢字変換で1文字ずつしか変換できなかったのに、『ワタシハキシャ キシャデキシャスル』が『私は記者 汽車で帰社する』って変換できるんだから」

いつの時代も新鮮な驚きは、世の中を動かす力である。そしてそれを伝えるのがメディアの重要な使命であり原点だ。

と同時に、「当のメディア自体も常にイノベーティブでなければならない」と大槻は言う。

大槻の信条は「ノーリスク、マイナスリターン」だ。時代が進歩する中でリスクをとらないことは、現状維持はおろか退化を意味する、という大槻の造語だ。この言葉どおり、アイティメディアはインターネットメディアの先駆けとして、業界のイノベーションを牽引してきた。そして、創業から10年が過ぎた今、大槻は次の時代に即した新しいメディア企業の在り方を模索している。

これまで培ったノウハウと新たなテクノロジー、そしてかつて男泣きに泣いたメディアへの熱い思い。さまざまなものを積み上げて、次にどんなメディアの未来を作るのか。請うご期待である。


※当記事はアイティメディア社内報に記載した記事を再構成したものです。


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